知ったかぶる

辛酸(なめこ)さんは大人になると周囲を気にして知ったかぶることがよくあると……

               2018年8月8日付朝日新聞大阪本社版文化文芸面

                       「チコちゃんの一喝 なぜ人気?」

 

「知ったかぶる」。

 

前に「ほとぼる」というのを拾ったことがある。

自分ごと

迷いながらも自分ごととして……

            2018年7月23日付朝日新聞大阪本社版生活面の見出し

 

少し前は「他人ごと」とか「他人事」というのをどうするかがよく問題になった。

以前は「ひとごと」というのが一般的だった。そしてこの「ひと」を「他人」と書いて読ませたい、という向きが意外に多かった。で、新聞用語のルールとして、基本的に常用漢字表の音訓の範囲で書くということがあるので、「他人」を「ひと」とは読ませない、といって書き手ともめるわけだ。

 

現在では「ひとごと」という言い方があまり一般的ではなくなった。どうなったかというと、みなさん「たにんごと」と言っているようなのだ。

国語辞典では「他人ごと」を「たにんごと」とするのは誤用、としているものが多い。しかしこれだけ一般化すると、もう誤用では片づけられなくなってきたと思う。

 

「他人ごと」=「たにんごと」であるから、自分のことは当然「自分ごと」ということになるのだろう。少し前なら「我がこと」とか言っていたのだろうが。

この言葉はまだ国語辞典でお目にかかったことはないように思う。一般紙の記事本文や見出しで使われるようになってくると、そろそろ一般化してきたということかもしれない。

 

 

 

「全勝ターン」と「魅せた」

御嶽海 全勝ターン

                                        2018年7月16日付朝日新聞大阪本社版スポーツ面見出し

魅セた 43歳上原無失点

                                        2018年7月15日付朝日新聞大阪本社版スポーツ面見出し

 

校閲さんの思い出話。

 

むかーしむかし、スポーツ新聞から転職してきた同僚に、大相撲初日から8連勝で中日に勝ち越すことを指して「全勝ターン」という見出しを考案した人物が「前に勤めていた会社にいた」という話を聞きました。

「ターン」というのは、水泳競技の折り返しからの発想だったそうです。相撲のひと場所が中日を挟んで前後半、というのはわかるけれど、前半と後半で進む方向が変わるわけでもないので、「ターン」ってのもなんか変ではありますが、その人がある日「えいや」と紙面に使ったところ、見る間にスポーツ各紙に広がり、1980年代には一般紙でも使うようになりました。

で、紙面にこの見出しが出るたびに、同僚は「この見出し始めたのはね……」と、おんなじ話をひとくさり。その人も数年前に亡くなりましたが、たまに紙面でみかけると感慨一入であります。

 

「魅せた」というのも思い出深い。80年代の一般紙校閲業界では、「スポーツ紙ならともかく一般紙で使うのはダメ」というのが支配的見解でした。理屈としては、「魅せる」なんて動詞はない、「魅す」の活用形なら「魅した」だろう、ということ。

 

スポーツ紙経験のある同僚がいうには、「見せた」じゃ面白みがないから「魅了した」という意味をこめて「魅せた」というのをやり始めたんだ、ということでした。

 

80年代というと、新聞の印刷開始時間をいかに遅くするか、の競争が激しくなっていたころです。印刷工場から遠くに運ぶ新聞には夕方の大相撲の結果をねじ込むのが精いっぱいだったのが、次第にプロ野球ナイターの結果も入れられるようになっていきました。

 

そうなると、スポーツ面の編集ができるのは、体力と瞬発力のある若手、ということになり、スポーツ面は若いキャップと部員のチームが組むようになりました。いきおい、四角四面の真面目な見出しでは面白くない、という方向に。一般紙でも「魅せた」を使いたがるようになり、校閲とは論争が絶えませんでした。

 

ついでにいえば前掲見出しは、オールスターゲームのもので、「魅セた」の「セ」がカタカナなのは、ご存じの通り「セントラル・リーグ」の「セ」であります。

これもスポーツ紙由来で、「混セ」なんていうのが始まりで、いつか「セ・リーグ」を指して「セ界」といったりするようになり、見出しの文言にカタカナの「セ」の字を交ぜることもやるようになりました。関西の新聞ではヤクルトの見出しに「○○ヤ」、というのも。

 

こういうのはだいたい一度下火になりました。

 

手あかがついて「またあれか」といわれるようになったからでしょう。でも思い出したように時々見るようになってきた(ような気がする)のは、一周まわって新しい、みたいなことになってきたのでしょうか。

 

「一般紙でスポーツ紙のまねをするなんてみっともない」と言っていた昔があったことだよなあと、遠い目になるのでした。

対口(たいこう)支援

被災した市町を支援するパートナーの自治体を決め、応援職員を派遣する「対口(たいこう)支援」の枠組みが広がっている。

                2018年7月13日付朝日新聞大阪本社版夕刊1面

                「被災市町にパートナー 職員ら体制づくり支援」

 

「対口(たいこう)支援」とは見なれない言葉。

 

記事中の説明によれば中国語で「ぴったり合う」の意で、2008年の中国・四川大地震で中国政府が大都市などに支援対象の被災地を割り当てた方式の名称だという。熊本地震などで同様の方式が効果を上げたことから、総務省が今年度から全国運用を始めたらしい。存じませんでした。

 

政府機関などが施策の名称に外来語を使うことはよくあります。分かりやすい日本語を使えばよいのに、わざわざおかしな和製英語や、英語を中心とする「カタカナ外来語」を使うことが多い。

 

意味が分かりやすいとなにか都合が悪いのかと勘繰りたくなるほど。

 

それはさておき、中国語由来は珍しい。中国の存在感が増すにつれ、こういう術語化は増えていくんでしょうね。

 

でもこれ、公的施策の命名法としては下の下だと思う。

 

日本国民がこぞって日常会話で「対口」を使っているんならともかく、そんなことにはなっていない。災害支援に関係する部署の職員はこの言葉をよく使っているとしても、新しく担当する職員にはいちいち説明しなくてはならないだろう。一般市民ならなおさらで、この語がでてくるたびに新聞では「キーワード」欄を設けなくてはならない。社会全般に無駄な手間を押し付けるようなもの。

 

なにより字面がかんばしくない。「対口支援」では、どうしたって「たいろしえん」と誤って読むから「ロシアに対する経済支援」かと誤解してしまう。

 

今からでも遅くないから、将来の自然災害に「対口支援」が必要になるまでに、誰が見ても聞いても意味の分かる名称に変えてもらいたい。

罵倒を浴びせる

北朝鮮に激しい罵倒を浴びせつつも……」

                 2018年7月13日付朝日新聞「社説余滴」欄

 

これまでなら、校閲が直しそうな言い回し。「激しく罵倒しつつ」とか「激しい罵声・罵言を浴びせつつ」の方がすんなり読めそうだから。

 

2012年9月22日の「毎日ことば」(毎日新聞社校閲グループのコラム)「会話の『誤用』に悩む」に同趣旨の記述がある。「会話」の場合、特に政治家の発言だと改ざんしたとか言われないように、そのまま使うことが多い。そんな場合でなければどうするか悩む、というのはよくわかる。地の文ならなおさら直したくなる。

 

ただ「罵倒を浴びせる」は「誤用」とまでは言いにくいと思う。字義だけからは「罵倒する」は「激しくののしる」動作をいうのであって、「罵りの言葉」を指すわけではない。しかし語幹は名詞として「激しいののしり」を意味すると考えれば、「罵倒を浴びせる」のはそれほどおかしいとも思えない。「ののしり」とは、つまるところ「ののしりの言葉」だと考えても不思議ではない。

 

漢熟語にはこのように「意味がにじんでいく」作用が働くことが多いように思う。意味がにじんで使い方の範囲が広がるうちに、言葉の結びつきや自他の別も変化するようなことが起こる。言葉づかいに厳格な向きはそれを「誤用」ととがめるが。

 

「毎日ことば」に触れられていることだが、6年前の時点では「大辞林」(三

省堂)だけが口ぎたなくののしること。また、その言葉」としていて、他の辞書では「ひどく悪く言う」などの動作をいうのが一般的だったという。

現在ではどうなっているだろう。

 

辞書が変わると新聞などの扱いも変わる。

40年くらい前には「新聞は一番あとからついていく」といっていたものだが、だんだん追いつくスピードがはやまっている気がする。

 

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「何かが落ちた。『腑』だった」

                2018年7月13日付朝日新聞大阪本社版生活面

                      伊藤理佐「大人になった女子たちへ」

 

腑が落ちましたか。

 

 

 

 

「口跡」と「功績」

 

「本当に功績が鮮やかな方でずいぶん勉強させてもらいました」

         2018年7月12日付スポーツニッポン(ウェブニュースから)

 

7月11日の桂歌丸さんの告別式に参列した桂文珍さんのコメント。

この記事について、ツイッターで「功績」と「口跡」を取り違えていると指摘されていました。

 

落語家のコメントとしては確かに「口跡」の方がそぐわしく感じます。「功績」と「鮮やか」もあまり結びつかない印象があるし、指摘の方に軍配が上がりそう。

 

ただ調べてみると、東京スポーツの記事にも同じ文言があるので、一人のうっかり者の誤変換が紙面に出てしまったということでもないようです。

 

文珍さんのコメント場面の音声が聞けないか、少し探してみましたがご本人の音声はうまく見つかりませんでした。複数の記者が聞き間違えるようなイントネーションだったのかが気になります。

「ほとぼる」

謝罪してほとぼりがさめるのを待つ。そもそも「ほとぼ」っていたのだろうか。

                        週刊文春2018年7月5日号

                        宮藤官九郎「いまなんつった」

 

茶店で先週の週刊誌を読んでいて、こんな文章を見つけた。

 

つい最近、似たようなのがあったのを思い出した。

 

歩いてない。小走っている。

                2018年6月29日付朝日新聞大阪本社版生活面

                      伊藤理佐「大人になった女子たちへ」

 

「小走る」である。

 

ほかにも正確な出典データは示せないが、テレビのアナウンサーの話し言葉で「鉢合わせる」、ネットニュースの見出しでは「深掘る」というのを見たことがあって、なんだかおもしろいと思ってメモしている。

 

動詞(や形容詞)の連用形を名詞で使うことがある。連用形名詞とかいうらしい。

多くは元の動詞や形容詞も使われる。たとえば「乗り換え」と「乗り換える」のように。

 

元の動詞が見当たらないというか使われていないものも多い。

 

「ほとぼる」や「小走る」もふつうはまず使わないような気がするのだが、どうなんだろう。

 

古語としては「ほとほる(熱る)」というのがある。そこから口語の「ほとぼる」となって「ほとぼり」が使われるようになったのか、「ほとぼる」はもとは存在しないのか。

単独語「ほとぼる」と複合語「小走る」のちがいもあるから一括りにはできないのだろうけど。ありそうな「元の動詞」は、ほんとうにあったのか、実はなかったのか。

 

「元の動詞」が実はなかったにしても、また元はあったのに今では使われなくなっているとしても、このごろになって使う人が現れたというのはどういうメカニズムなんだろうか。