なし崩し的拡大

なし崩し的拡大と在留期間の長期化

                   2018年11月22日付朝日新聞朝刊4面

    (入管法改正案に対する立憲民主党枝野幸男代表の主張のインフォグラフ)

 

 10月18日付の4面でも共産党小池晃書記局長が同法案をめぐって「人手不足を理由にして、それをなし崩し的に広げていこうということは非常に重大な問題だ」と述べている。

 

 「なし崩し」という語が元の意味を離れて使われている、ということはだいぶ前からいわれている。9月26日付朝刊で紹介された2017年度の「国語に関する世論調査」では、「なかったことにすること」と答えた人が65・6%にのぼったという。

 

国語辞典もすでにこの変化を反映している。

最近出た三省堂「現代新国語辞典」6版では2番目の意味として

 

 [「なし」が「無し」とまぎれた俗用で ]かってにうやむやにしてしまうこと。「原則を――に変更する」

 

と記述する。

 

 本来的には「なし」は「済す=返済する」であって、「済し崩し」は「借金を少しずつ返済すること」だった。ところが「なし」が「有る無し」の「無し」や助動詞の「~ない」と音が通じることから、これまでに確立してきたものをなくす方向に、崩す方向に変えていくこと、といった使われ方をするようになったのだろう。

 

 世論調査の関連記事(9月28日付文化文芸面)に広辞苑第7版の担当者・平木靖成氏は「意味がグラデーションのように変化した」パターンといっている。

 

 「三省堂国語辞典」7版は、1「借金を少しずつ返すこと」、2「物事を少しずつ処理すること」、3「ずるずると時間をかけてだめにすること」と変化のさまを表している。

 

 これまでの意味変化は、「なし」とか「くずす」とか、この言葉を構成する部品の音や意味の影響が強かった。一貫して「だめにする」「うやむやにする」というネガティブ方向に変わってきた。

 

 そこへいくと「なし崩しに拡大」「なし崩しに広げる」は、なんだか従来と逆を向いているようだ。これからは「徐々に」「だんだん」「ずるずると」といった副詞として機能していく気がする。

取り残さない

避難、誰も取り残さない

                10月29日付朝日新聞「災害大国」特集の見出し

 

 「取り残さない」。別段おかしいわけではないけれど、自分ではあまりこういう言い方はしない。

 

 この紙面によると、大分県別府市が2016年から「だれひとりとりのこさない防災」というスローガンを掲げているという。

 

 2015年9月には国連が「持続可能な開発のためのアジェンダ2030」という文書を採択していて、その文中に「No one will be left behind」とあるのを、外務省の文書などで「誰一人取り残さない」と訳しているようだ。

 

 手元の国語辞典の「取り残す」の項は、「取らないで残す」「取り忘れて残す」という意味を挙げ、次に「置き去りにする」という意味を挙げる。そしてこの意味では「『~られる』の形で」と記すものが多い(「られる」に触れていない場合でも用例はみな「取り残される」の形になっている)。

 

  よく利用している国立国語研究所コーパス少納言」でキーワード「取り残」を検索してみると376件ヒットする。

 このうち「取り残され」の形が352件、「取り残す」の活用形が24件だった。この24件のうち、「手術などで病巣を除き損ねる」という意味の「取り残す」が16件、「果実などを収穫せずに残しておく」意味の用例が3件、「取りこぼす」とか「休暇を取らずにいる」といった用例が3件で、「置き去りにする」という意味の用例は2件だった。 

 

 

参勤交代よろしく

「1社に参勤交代よろしく勤めるのでなく、『少しでも自分を評価してくれる大名のもとを渡り歩く』戦国武士に近いから」

                 10月28日付朝日新聞1面「折々のことば」

 

 何度か読み返したのだけれど、どうもよく分からない。

 

 戦国武士のように自分を評価してくれる大名のもとを渡り歩く生き方と対照的な生き方を指すのだと思う。それを「1社に長く勤める」というのなら、すんなり理解できるんだけれど「参勤交代よろしく」が分からない。「あたかも参勤交代のように1社に勤める」???

 

 もとになっているのが10月17日付オピニオン面「耕論 二足のわらじ広がるか」に掲載された小説家・朱野帰子氏の発言だというので原文を見てみる。

 

 昔ながらの男性の働き方が参勤交代にいそしむ江戸時代の武士だとすれば、女性は少しでも自分を評価してくれる大名のもとを渡り歩く戦国時代型です。

 

 朱野氏の発言の中には「一つの会社のために自分のすべてを捧げる」「定年まで一つの会社で勤める、といった生き方の『パッケージプラン』」といった言葉がある。

 戦国時代の武士が「(各大名を)渡り歩く」のに対しては、おそらく「一人の大名に終生仕える」のが江戸時代の武士だったと言いたいのだろう。

 

 参勤交代といえば、幕府が大名や旗本に定期的に江戸参府を強いる制度で、武士たちが進んで「いそしんでいた=精を出した、励んでいた」とは思えない。

 幕府の命令に逆らえば取り潰されたりするので、武士たちは参勤交代に「いそしまねばならない」立場だったとはいえるかもしれない。「参勤交代にいそしむ」とは「参勤交代のような苦役にもめげずに忠勤を尽くす」すなわち「どんな辛いことがあっても一人の大名に尽くす」ということか。

 

 こんなふうに無理して解釈しなくてはならないというのは、インタビュー内容の要約の不備としか思えない。参勤交代を何か違うことばと誤解したのかもしれない。

 「折々のことば」は意図不明な部分を抜粋してしまったようだ。

 

 それにしても1面コラムを校閲さんが読んでいないなんてことがあるんだろうか。

 

空回ってる

「空回ってる」の用例ゲット。「空回り」という名詞が、動詞化した例ですね。

         10月24日の法政大学・尾谷昌則氏のツイッターでの発言から。

 

 漫画「GIANT KILLING」の画像つき。吹き出しに「前半は空回ってる印象だったのに」とある。

 

 「空回る」という用例は初めて見たように思うので記録しておく。

 

 尾谷氏はその後「野球の『空振り』だって、よく考えたら『空振った』という動詞で随分前から使用されてるんだから、『空回る』が『空回ってる』のような動詞(テイル形だから意味的には形容詞に近い)になるのも当然か」とも発言している。

 

 尾谷氏にとって「空回る」の例はすでに使われていると認識していて「空回ってる」が初見なのか。そのへんよく分からないが、「空振った」「空振る」は前から使われているという。

 

 「空振る」については、読売テレビ道浦俊彦氏のブログで2014年に、日本経済新聞のコラムのタイトルに「ボールを空振ること」とあるのを報告している。ブログにもあるとおり三省堂国語辞典第7版は「空振り」の動詞形として挙げている。

 

 ネット上では歌の題名で「空振った」が出てくるが、なかなか文章では見つからない。

 

 いずれも個人的にはまだ珍しく感じる使い方です。

消化も不良に

ネタがてんこ盛りで、消化も不良になりそうなほど。

                10月21日付朝日新聞テレビ番組面「試写室」欄

 

 面白いもので「消化不良に」なら比喩表現だとすんなり読めるのに、「消化も不良に」と「も」の字ひとつ入っただけで胃のこなれ具合が気になってしょうがない。

 

 

 

絶望のふち

一度は絶望のふちに立たされた人は、それを信じられる。

                    10月13日付朝日新聞1面「天声人語

 

 この場合の「ふち」は漢字で書くとどれなんだろう。

 

 新聞の場合、仮名で書いているのは新聞社設定の表外字・音訓ということが多い。となると「淵」なのか。「淵」は「水の流れがよどんで深くなったところ」のことで、比喩的には「抜け出ることが難しい境遇、心境」のことをいうので「絶望の淵」という言い方をすることは多い。国語辞典は「絶望の淵に沈む」という例を挙げることが多い。

 

 「絶望の淵に立つ」というのはどんな姿なのか。「絶望に沈んだ心境でなすすべもなくたたずむ」さまかと思う。

 

 なおこの文では、瀕死のクヌギの実を鉢に植えて待つこと半年、やっと芽が出たのを喜ぶ人が、自身の娘が難病と闘いながら育ってきた経験と重ね合わせ見ている。「一度は絶望のふちに立たされた人」は、まだ絶望しきってはいない。

 

 となると、じつは「絶望のふち」とは「崖っぷち」の「ふち」で、漢字は「縁」を当てるのが適当なのかもしれない。

 

 絶望の瀬戸際にある人物は「絶望の縁」に立っていて、これがひとたび絶望しきってしまうと、「絶望の淵」に沈んで浮かび上がれなくなる、みたいな。

 

 ちなみに三省堂国語辞典第7版は、「淵」の3番目の意味として「せとぎわ。『滅亡のー』」としている。これは「縁」の項に移した方がいいと思う。あくまで個人の意見ですが。

 

鷲摑む

お客様の気持ちを鷲摑んだ

                   2018年8月16日付ほぼ日刊イトイ新聞

                「おいしい店とのつきあい方」サカキシンイチロウ

 

「鷲摑む」。

こうしてみるといろいろある。