罵倒を浴びせる
「北朝鮮に激しい罵倒を浴びせつつも……」
2018年7月13日付朝日新聞「社説余滴」欄
これまでなら、校閲が直しそうな言い回し。「激しく罵倒しつつ」とか「激しい罵声・罵言を浴びせつつ」の方がすんなり読めそうだから。
2012年9月22日の「毎日ことば」(毎日新聞社校閲グループのコラム)「会話の『誤用』に悩む」に同趣旨の記述がある。「会話」の場合、特に政治家の発言だと改ざんしたとか言われないように、そのまま使うことが多い。そんな場合でなければどうするか悩む、というのはよくわかる。地の文ならなおさら直したくなる。
ただ「罵倒を浴びせる」は「誤用」とまでは言いにくいと思う。字義だけからは「罵倒する」は「激しくののしる」動作をいうのであって、「罵りの言葉」を指すわけではない。しかし語幹は名詞として「激しいののしり」を意味すると考えれば、「罵倒を浴びせる」のはそれほどおかしいとも思えない。「ののしり」とは、つまるところ「ののしりの言葉」だと考えても不思議ではない。
漢熟語にはこのように「意味がにじんでいく」作用が働くことが多いように思う。意味がにじんで使い方の範囲が広がるうちに、言葉の結びつきや自他の別も変化するようなことが起こる。言葉づかいに厳格な向きはそれを「誤用」ととがめるが。
「毎日ことば」に触れられていることだが、6年前の時点では「大辞林」(三
省堂)だけが「口ぎたなくののしること。また、その言葉」としていて、他の辞書では「ひどく悪く言う」などの動作をいうのが一般的だったという。
現在ではどうなっているだろう。
辞書が変わると新聞などの扱いも変わる。
40年くらい前には「新聞は一番あとからついていく」といっていたものだが、だんだん追いつくスピードがはやまっている気がする。
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「何かが落ちた。『腑』だった」
2018年7月13日付朝日新聞大阪本社版生活面
伊藤理佐「大人になった女子たちへ」
腑が落ちましたか。